【連載コラム 第36回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
floor leaderって、どんな人?
アメリカの議会に関することばのうち、floor leader(院内総務)は日本に存在しない役職なので、特にわかりにくいと思います。日本とはちがって、2大政党である共和党(Republican Party)と民主党(Democratic Party)のどちらにも、党首にあたる役職はありません。そこで、連邦議会でも州議会でも、両党の代表をつとめるのがこの院内総務です。上院(Senate)でも下院(House of Representatives)でも、多数党の院内総務がmajority leader、少数党の院内総務がminority leaderと呼ばれます。多数党・少数党は各院の議席数で決まりますから、かならずしも大統領の出身政党が多数党というわけではありません。
院内総務は両党の代表であると書きましたが、厳密に言うと、下院では多数党の最有力者が議長をつとめるので、多数党の院内総務は実質的にはナンバー2にあたります。また、連邦議会の上院では、副大統領が議長を兼任するならわしとなっています。
『大統領失踪』(ビル・クリントン&ジェイムズ・パタースン著、 越前敏弥&久野郁子訳、早川書房)の主人公はジョナサン・ダンカンという現職大統領ですが、作中に「共和党」「 民主党」ということばは一度も出てこなくて、「多数党」「 少数党」あるいは「わが党」「 対立党」と書かれているだけです。共著者のひとりが民主党の元大統領ビル・クリントンですから、当然ながらダンカンも民主党だと考えられますが、「党のシンボルのロバ」という記述があることからどうにか推測できるだけで(民主党のシンボルはロバ、共和党は象)、はっきりと記されてはいません。
作中では、上院も下院も対立党が多数議席を押さえていて、ダンカンの政治的基盤はけっして強固ではありません。物語の中盤には、副大統領(ダンカンと同じ党だが、ダンカンとの関係は良好ではない。先述のとおり上院議長でもある)と対立党所属の下院議長のふたりがダンカンに悟られずに裏交渉をおこなう場面があり、だれが味方でだれが敵なのか、緊迫した展開がつづきます。もちろん、各院の両党院内総務も登場し、作中では単にleaderと呼ばれる場面がほとんどです。
なんと言っても、大統領経験者がみずから書いているのですから、『大統領失踪』はホワイトハウスの内情や政治の仕組みを知りたい人にとって最高のテキストです。もちろん、そういうことを抜きにしても極上のサスペンスですから、ぜひ読んでみてください。

越前敏弥(えちぜん としや): :文芸翻訳者。1961年、石川県金沢市生まれ。東京大学文学部国文科卒。訳書『オリジン』『ダ・ヴィンチ・コード』『Yの悲劇』(KADOKAWA)、など多数。著書に『この英語、訳せない!』『「英語が読める」の9割は誤読』(ジャパンタイムズ出版)、『日本人なら必ず誤訳する英文・決定版』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがある。

