平井美樹さん
会議通訳とスポーツ通訳の両分野で活躍する平井美樹さん。二刀流のトップキャリアはどのように構築されてきたのか。平井さんに、これまでの歩みと通訳者のキャリア形成について語ってもらった。
サービス業に携わる自覚が 通訳者の“付加価値”を育む
創意工夫を惜しまず 託された役割を果たす
一般的に通訳者のキャリアは、通訳学校を出てエージェントに通訳者として登録するところから始まる。ところが平井さんのキャリアは少し異なる形でスタートした。
「学生時代にアルバイトを探していたところ、NHKが英語のできる人材を募集していると知り、応募したら採用されたんです。主にESPNというアメリカのスポーツ専門チャンネルを見て、メジャーリーグやNBA(アメリカプロバスケットボールリーグ)のニュースを翻訳するのが仕事でした」
大学卒業後は広告代理店に入社。NHKでの経験も活かし、社内通訳者として働いた。ここでもスポーツに関連した案件を数多く担当する。
「入社後は、営業からマーケティング、プロモーションにいたるまでの通訳に従事しました。そこで、クライアントをいかに満足させるかが、通訳でもプロとして求められる仕事なのだと学びました」
その後、結婚による退社を経て、再びNHKでの仕事を開始。アルバイト時代の仕事ぶりを評価されたことが復帰につながった。
「当時の先輩から声を掛けていただき、再びお世話になることに。学生時代はニュース番組の素材となる情報を集める役割だったので、映像を翻訳するだけでなく、ネットも駆使してさまざまなネタを集めていました。それによって私も、各競技の魅力や選手たちの個性を知ることができたんです」
依頼された仕事をただこなすだけでなく、与えられた役割を果たすために創意工夫する姿勢。それがキャリアを切り拓くきっかけになった。平井さんはその後も順調にステップアップを重ねていく。
「最初はやはり映像翻訳の業務が中心でしたが、衛星中継した試合の選手インタビューを同時通訳したり、来日した外国人選手に帯同したりと、通訳者としての仕事も徐々に増えていきました」
スポーツ通訳者として邁進する一方で、平井さんは会議通訳者としての歩みも始めていたという。
「スポーツ通訳の仕事をしながらNHKの国際研修室に通って、会議通訳の勉強もしていました。ここで通訳の基礎知識や基本スキルを修得したことで、やっとプロの通訳者として自信をもてたと思います」
そして、会議通訳者としてのデビューはまさかの大舞台。サミットに関連した国際会議の同時通訳を、先輩の通訳者と共に担当した。
「先輩方のサポート的な立場でしたが、通訳ブースでの同時通訳を初体験し、本当に緊張しました。通訳の王道である会議通訳の仕事には憧れをもっていたので、うれしかったですね。瞬時の判断力などは、スポーツ通訳で培った経験がかなり役立ちました」
スポーツ通訳の現状と未来
以後、会議通訳者として数々の国際会議で同時通訳を担当。それと並行し、スポーツ通訳者としてのキャリアも着実に積み上げていく。
「五輪の競技やサッカーのワールドカップにも、通訳者として携わることができました。現在は、2019年に日本で開催されるラグビーのワールドカップの準備にも通訳者として関わっているので、今から大会が楽しみです」
そのほか、海外に向けた英語版大相撲中継の通訳や、日本スケート連盟の通訳も務めるなど、幅広い活躍を続けている。通訳者のゴールともいわれる会議通訳者としての地位を確立したにもかかわらず、スポーツ通訳の仕事を続けているのは何故なのか。
「スポーツには国境を超えて世界中の人々を感動させる力があります。その魅力を少しでも多くの人に伝えたいし、アスリートが戦う環境を整える取り組みにも貢献したい。もうこれは仕事というよりライフワークですね。でもそれは決して趣味という意味ではありません。プロの通訳者として責任をもって仕事に取り組んでいます」
スポーツ通訳の仕事は華やかな部分だけではない。それは平井さんも声を大にして訴える。
「スポーツ通訳というジャンルは単なる総称であって、仕事内容は多岐にわたります。選手の記者会見で逐次通訳をしたり、試合後のインタビューを同時通訳したりするのは仕事のほんの一部。競技や現場によっては、記者の仕事を兼ねたり、場内アナウンスを担当したり。競技知識はもちろん、取材能力や体力も求められます」
これは想像以上にハードな仕事だ。さらに、スポーツ通訳者ならではの気苦労があると平井さんは語る。
「相撲やフィギュアスケートなどスポーツは注目度が高いので、通訳も何かと話題になってしまうことがあります。だからこそ、こっちも真剣勝負。批判されて落ち込むこともありますが、それだけ注目してもらえるのはやりがいでもありますし、通訳のスキルも鍛えられますね」
今後はさらにスポーツ通訳者の役割が重要になってくるという。
「スポーツ通訳者は、五輪競技の国際会議でルール改正や大会開催の交渉に立ち合うこともあります。現代のスポーツは、国と国の交渉も含めた戦いになっている。政治的な交渉力に関していえば、日本は世界に後れを取っています。しかし、日本にもスポーツ庁が設置されたので、今後は日本でも政治的な場面におけるスポーツ通訳者の需要が高まると期待しています」
通訳者としての付加価値を育む思考
現在、平井さんは双子の育児とのバランスを考慮して国際会議の仕事は控え、スポーツ通訳の仕事と、メインクライアントである某大手メーカーの通訳業務を中心に活動している。国際会議の仕事は、事前勉強や資料作りに時間がかかるため、家庭やスポーツ通訳との両立が難しくなってきたからだ。
「忙しくて時間がないというのはこちらの勝手な事情で、クライアントには関係ありません。全ての仕事に対して万全の準備をするのが通訳者の義務。だからこそ、仕事量を調整することもプロとしての責任なのです」
国際会議から五輪、ワールドカップ、大手企業の案件まで、ジャンルを超えて大舞台を任される平井さん。ほかの通訳者とはどこが違うのか。本人に分析してもらった。
「自分ではあまりわかりませんが、クライアントからは通訳者としての〝付加価値〟を評価していると言っていただいたことがあります」
プロの通訳者として、的確な通訳や臨機応変な対応ができるのは当たり前。そこにプラスした付加価値こそが他者との差別化を可能にする。では通訳者の付加価値とは何を指すのか。
「それは通訳者によって異なると思いますが、私の場合はコーチングやメディアトレーニングといった要素でしょうか。例えば選手の通訳をする際、コメントの表現や言葉選びの段階から関わることがあります。もちろん専門的な内容に口を挟むことはありませんが、文化が異なる外国のメディアやファンに与える印象などを考えてアドバイスを送っています。そういうプラスアルファの部分を評価していただいたのかもしれません」
思い返せば平井さんがNHKでのアルバイト時代に評価されたのも、情報収集に対して創意工夫するプラスアルファの部分。託された役割を果たすために自分は何ができるのか。そこを突き詰めていったことが、通訳者としての付加価値につながっているようだ。
「それは通訳者の仕事じゃないという人もいますが、話し手の考えや意見がしっかり伝わるようにサポートするという役割においては、通訳することもコーチングすることも実は同じこと。通訳者も基本的にはサービス業です。そう考えればクライアントの要望に応えようと創意工夫するのは当然の姿勢ですよね」
通訳者だからこそ味わえる感動とよろこび
これまでのキャリアを通して、平井さんが感じた通訳という仕事の魅力とは何なのか聞いてみた。
「これまでスポーツ通訳者または会議通訳者として、さまざまな分野の世界を見てきました。それはもう贅沢な社会見学といえばいいのか、世の中をいろんな角度から眺める長い旅に出ている感覚です。普通に生きていたら絶対に出会えない方々と一緒に仕事をすることができるし、何年やっても刺激的で飽きることがありません」
しかし、幅広い分野を扱うということは、それだけたくさんの学習や努力も必要になってくる。
「この仕事はしっかり準備して結果を出せば、話し手にも聞き手にもよろこんでもらえます。がんばったらがんばっただけ人の役に立てる。そこも大きな魅力ではないでしょうか。それに、話し手と通訳者の間に信頼関係がなければよい仕事はできません。だからクライアントとは、いつもチームのような感覚でいます。交渉やプレゼンが成功したときなどは、私も心から一緒によろこび感動できるんですよ」
最後に、これから通訳者を目指す人に向けて、キャリア形成に関するアドバイスを伺った。
「私自身は出会いに恵まれ、ラッキーな面もありました。何かアドバイスをするとしたら、目の前の仕事に対して全力で結果を出すしか道はないということ。そして、失敗したらそれを糧にして成長すればいい。そうやってひとつずつ経験を積み重ねていけば、必ずチャンスが訪れるはずです」
取材・文/谷口洋一 写真/川崎聡子
この記事は「通訳・翻訳キャリアガイド2018」に掲載されたものです。