関根マイクさん
海外で生まれ育ち、日本に定住したのは通訳者になってからという、通訳学校出身者とまったく異なるプロセスでキャリアを築いてきた。独学で通訳スキルを学び、トップ通訳者へと上りつめた関根さんにこれまでの歩みと通訳者としてのこだわりについて語ってもらった。
信頼される会議通訳者は勝負どころを見極める
経験ゼロの学生がいきなり通訳者デビュー
会議通訳のエキスパートとして数々の大舞台を経験してきた関根さん。通訳者の王道を歩んでいるように見えるが、その経歴はかなり異色。通訳者になったのも偶然だったという。
「僕は香港で生まれてインターナショナルスクールに通っていました。日本語をしゃべるのは家の中だけ。子どもの頃は英語が苦手でしたが、12歳で家を出てカナダに留学してからはずっと英語だけで生活していました」
学生生活を通してネイティブな英語を習得したが、それでも通訳者になるというような考えは一切なかった。
「大学生になっても将来の夢や目標は特になく、どうしたらずっと学生のまま自由に生きていけるのか真剣に考えていました(笑)」
そんな関根さんに転機が訪れる。
「日本から視察でカナダに来る林野庁の職員に通訳者として同行するアルバイトを大学の掲示板で見つけました。短期間で稼げるし、通訳ぐらいできるだろうと思って応募しました」
即採用され、未経験の学生が、ぶっつけ本番で実戦デビューすることに。
「結果はもちろんボロボロ。専門用語もわからないし、最後までまともな通訳ができなかった。報酬を受け取る時は本当に申し訳ない気持ちでしたね」
しかし、これに懲りず関根さんは通訳のスキルを独学で学びはじめた。
「大学を留年し、親からも仕送りを止められたので、学費や生活費を稼ぐ必要がありました。最も効率よく稼げそうだと思ったのが通訳の仕事でした」
大学のあるブリティッシュ・コロンビア州において持ち前の行動力と柔軟な発想で独自の道を切り開いていく。
「デビュー戦で語学力だけでは通訳者は務まらないと知り、どこかで通訳スキルを学べばいいと考えました。そこで州のコンベンションセンターで開催される国際会議やイベントに通い、通訳者の仕事を徹底的に観察しました」
さらに、翻訳者としての活動も同じ時期にスタートさせる。
「インターネットで翻訳者の登録サイトを見つけてエントリーしました。すると定期的にパンフレットとか個人的なレターなどの小さな仕事がもらえました」
最初からプロとしてスキルを磨いていった関根さんのキャリア形成は、専門スクールで学ぶことからスタートする日本の通訳者・翻訳者とは異なる。
「自分はとにかく実戦主義。スポーツと同じで実戦は練習の何倍もの経験値が得られます。お金をもらって責任のある立場で通訳すると失敗できないので本当の力が身につく。結果的にこのやり方が僕には合っていましたね」
自分のキャリアは自分でデザインする
お金のためにはじめた通訳・翻訳の仕事であったが、その頃にはプロ意識が芽生えていた。
「北米では自分でキャリアをデザインしていくのが当たり前。受け身では何も前に進みません。フリーランスとして社会でお金を稼ぐ経験は、大学の授業よりはるかに社会勉強になりましたね(笑)」
そして、卒業後の進路を考えていた関根さんにビッグチャンスが舞い込む。2000年7月に開催された「沖縄サミット」での仕事を依頼されたのだ。
「クライアントはアメリカのCNN。ホテルで日本の新聞の翻訳補助をしたり、パーティーや懇親会で通訳をしたりするのが自分の役割。メインの通訳者として抜擢されましたが、こんな大舞台は初めてだったので必死でやりました。カナダで逐次通訳の様子なども見ていたので、その経験も役立ちましたね」
この沖縄サミットの仕事をきっかけにそのまま沖縄に移住することを決意。
「沖縄は自然も気候も最高だし、ご飯も美味しい。そして家賃も安い。まさに天国。生活は何とかなるだろうと考えていました(笑)」
沖縄の通訳エージェントに登録すると、サミットの実績が評価されて順調に仕事を受注。さらに、沖縄ならではの通訳需要の恩恵も受けた。
「沖縄は米軍基地があるので、米兵がらみの裁判が頻繁に行われる。法廷通訳の需要が特に高いんですよ」
法廷通訳と会議通訳、さらには翻訳の仕事も並行する多忙な日々。実績を積み重ねると、担当する仕事も次第に大きくなっていった。
「年を追うごとに東京で行われる国際会議や商談の通訳を依頼される回数が増え、法務通訳の仕事でも東京の大使館や大阪の領事館などに行く機会が出てきた。そういった事情もあり、2013年から東京に拠点を移しました」
東京は、当然ながら沖縄より通訳需要は高いものの、比例して競争も激しくなる。30代後半での東京進出に不安はなかったのだろうか。
「多少の不安もありましたが、東京で仕事をするワクワク感のほうが大きかった。沖縄での生活も充実していましたが、好奇心には素直でありたい。だから変化を恐れることはありません」
話し手が言葉に込めた〝感情〟も通訳したい
東京でも実力が評価され、会議通訳の第一人者として活躍。今も仕事の依頼が途切れることはない。通訳者と翻訳者の二刀流を貫いてきたことが強みになっていると関根さんは分析する。
「僕は最初から通訳と翻訳の仕事を並行して行ってきました。翻訳は話し言葉ではなく文章にするので正しい文法が身につくんですよ。通訳の場合は文法が多少乱れても意味が通じればそのまま流れていきますが、翻訳はごまかしがききません。文法が整っていれば話し言葉もより伝わりやすくなります。逆に翻訳をあまりやっていない通訳者は文法の意識が弱い傾向にあると思う。だから今でも翻訳の仕事は、通訳の仕事が忙しくてもできる範囲でこなすようにしています」
2015年には通訳者仲間と「日本会議通訳者協会」を設立。フリーランスや社内の通訳者を多方面でサポートし、現在は400人以上の会員が所属している。近年は著書を執筆するなどますます活動の幅を広げている関根さん。通訳の仕事を現在はどのような基準で選んでいるのだろうか。
「決算発表のようなファクトだけを忠実に伝える仕事には少し物足りなさを感じます。商談や政府間交渉の現場では相手との駆け引きがあるし、言葉の一つひとつに話し手の感情が出る。僕は話し手の言葉だけでなく〝感情〟も通訳したい。同じ言葉でもその時の状況や話し手の心情で意味合いが変わります。そういった現場の通訳は難しい半面、とてもやりがいがありますね」
話し手の感情を汲み取るポイントは目的意識の共有だという。
「とある日米の政府間交渉で、日本が求める作業を米国側がまったく進めず、〝時間がない〟と取り合ってくれないことがありました。そして交渉期限が終わりに近づくと、業を煮やした日本側のリーダーが〝ならば時間を作ってください〟と懇願したんです。その言葉に僕は強い意思を感じて、〝Then make time.〟とあえて命令調に訳しました。これは勝負どころを見極めたからこその判断。するとこのひと言で米国側の雰囲気が一変し、はぐらかす態度を改めたのです。一つひとつの言葉を正確に訳すことはもちろん、その交渉の目的は何なのか、何を得るためのものなのかを意識して訳すことも重要です。話し手が目指すゴールを通訳者も理解すれば目的意識を共有できる。交渉期間が長い案件では特にゴールを意識します」
最後に通訳者として成功するための秘訣を聞いてみた。
「一流の通訳者でもノーミスで終わる仕事は1年に数えるほど。僕も未だに小さなミスをしては落ち込みます。通訳者には失敗を成長につなげるメンタルが不可欠。実力があるのにメンタルが弱くて辞めていった人を僕はたくさん見てきました。この世界では粘り強い人が最後に勝つ。辛いことも含めて仕事を楽しんでほしいですね」
取材・文/谷口洋一 写真/田村裕美