【連載コラム 第40回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
楽しいのか、楽しくないのか
文芸翻訳のクラスに来る人のなかには、TOEICのスコアが満点近いとか、いわゆる語学力では問題がなさそうなのに、なかなか伸びない人がいます。そういう人に共通するのは、まじめすぎること、そして小説や映画などにあまり親しんでいないことです。
たとえば、『ウルフ・ムーンの夜』(スティーヴ・ハミルトン、ハヤカワ・ミステリ文庫)の冒頭で、主人公のアレックスは一夜かぎりのアイスホッケーのキーパーとして借り出され、相手チームのシュートを立てつづけに食らって、チームは完敗します。そのときアレックスは“It was fun all right.”と語るのですが、これはどう訳せばいいでしょうか。
クラス生の多くは(TOEIC満点の人も含めて)「まあ、なかなかおもしろかった」「 どうにか楽しめた」などと訳してきました。負けて楽しかったはずがないので、all rightのところでなんとなく弱めてつじつまを合わせたのでしょう。しかし、勘のいい人なら、ここの意味はまったく逆で、楽しくもなんともないのに、ふてくされて「はいはい、楽しかったさ」と言っているのだとわかるはずです。だからこそ、読者は負け惜しみを言うアレックスに親しみを覚えるのですね。物事は文字どおり、表面どおりとはかぎらないからこそおもしろいのです(特にフィクションの世界では)。
別の例をあげましょう。ある小説で、中年の男が刑務所を出て転職を繰り返したあと、“He went into the lucrative world of carpet cleaning.”という文がありました。lucrativeは「儲かる」で、ここでの仕事は現場での清掃作業です。もちろん、そういう仕事に就いてすぐに儲かるはずがないので、ここもあえて裏返しの言い方をしているわけですが、問題はここをどう訳すかです。これがなかなかむずかしい。
そのまま「儲かるカーペット・クリーニング業界にはいった」と訳すと、多くの読者が「ああ、儲かったのか」と素直に読んでしまいます。かといって、「カーペット清掃なんていうケチな仕事についた」などと平たく訳すと、意味はわかってもらえますが、原文の持つ皮肉なおもしろみがすっかり消えてしまう。では、どうすればよいかと言うと、こんなとき、多くの読者に反語的表現だと気づかせるためにあえて大げさに訳す、という方法があります。そこで、わたしの訳は「カーペット清掃員なんて、とてつもなく儲かる仕事に就くしかなかった」。こういうところの匙さじ加減は非常にむずかしく、読者層に注意して、どの程度まで説明すべきかを考えつつ、訳文を調整するのが常です。

越前敏弥(えちぜん としや): :文芸翻訳者。1961年、石川県金沢市生まれ。東京大学文学部国文科卒。訳書『オリジン』『ダ・ヴィンチ・コード』『Yの悲劇』(KADOKAWA)、など多数。著書に『この英語、訳せない!』『「英語が読める」の9割は誤読』(ジャパンタイムズ出版)、『日本人なら必ず誤訳する英文・決定版』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などがある。

