【連載コラム 第5回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
enjoy ー「楽しむ」だけではピンとこない
enjoyは、さまざまな理由から訳しづらい単語です。
まず、これの代表的な訳語は「楽しむ」ですが、みなさんにはenjoyを「楽しむ」と訳して、どうも大げさすぎると感じた経験がないでしょうか。
enjoy the partyなら「楽しむ」でぴったりでしょうが、enjoy the dinner やenjoy the cakeあたりだと、「満足する」ぐらいでじゅうぶんでしょう。enjoyは「楽しい」よりも広い範囲の好感情を表しうることばです。
以前、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』について解説した文章を訳したとき、原文にこのような個所がありました。
the citizens of this dystopia often crash and enjoy running down pedestrians
『華氏451度』の作中世界の住人たちは、たしかに心がすさんでいますが、人殺しを楽しんでいるとまでは書かれていませんから、わたしはここを少し控えめに
このディストピアの住民たちは、たびたび衝突事故を起こしたり、平気で歩行者を轢き殺したりする
と訳しました。
また、enjoyは「享受する」という日本語に該当する場合も多いですが、訳すときはどうもその訳語ではぴったりと言えません。ある会社の代表者が “We enjoy a lot of staff loyalty.” と言ったとしたら、enjoyの訳語を無理にひねり出すよりは「うちは仕事に忠実な者ばかりです」とでも訳すほうが自然になるはずです。
そのほか、「所有する」が近い場合もありますが、素直にただ “I enjoy good health.” などと言うこともあれば、逆説的に(皮肉をこめて) “I enjoy poor health.” などと言うこともあり、これもなかなか処理が厄介です。
* 本コラムは『この英語、訳せない!』(ジャパンタイムズ出版刊)から抜粋して掲載しています。
越前敏弥先生の本
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