【連載コラム 第10回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
politics, policy ― politicsは「政治」じゃない?
ふつう、politicsは「政治」または「政治学」、policyは「政策」と訳されます。では、つぎのふたつの英文はどう訳せばいいでしょうか。
Carolyn, after my victory, turned to policy. She still keeps an eye on politics, but(後略) Jenny, on the other hand, just focuses on politics,(後略)
これはわたしの訳書『大統領失踪』(ビル・クリントン&ジェイムズ・パタースン、早川書房)の一節で、語り手は現職のアメリカ合衆国大統領。キャロリンは大統領首席補佐官で、ジェニーは次席補佐官です。 policy は「政策」で問題ありませんが、politics を「政治」と訳しても、なんだかすっきりしません。「政治」ではあまりにも意味が広すぎて、そのなかに「政策」も含まれてしまい、対比にならないから です。
politicsというのは、政治のなかでも「駆け引き」「調整」にあたる部分を指すことが多いことばです。したがって、わたしはこの個所を「わたしが当選したあと、キャロリンは政策の分野に転向した。いまでも政情全般に目を配ってはいるが……」「一方のジェニーは政治的駆け引きに専念し……」と訳しました。同じ『大統領失踪』のなかで、politicsを「政争」と訳した個所もあります。
statesmanとpoliticianのちがいは「政治家」と「政治屋」のちがいだ、などと言われることがあるのも、おそらくこのことと無縁ではないでしょう。
そう言えば、ビリー・ジョエルの名曲“Piano Man”の歌詞に“The waitress is practicing politics as the businessmen slowly get stoned.”という一節があります(get stonedは「酔っぱらう」)。かつて、前半部分に「ウェイトレスは政治を勉強中」という感じの訳詞がついていたようですが、このpoliticsも駆け引き、ここでは客とのあいだの駆け引きであり、正しい訳は「ウェイトレスは抜け目なく行動し(て巧みに客をあしらい)、(酒をたくさん飲んだ)客たちはゆっくり酔っていく」ということになります。この曲は実在の店がモデルで、このウェイトレスはビリー・ジョエルの最初の妻だそうです。
越前敏弥先生の本