【連載コラム 第13回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
water ―「熱い水」って?
“Give me a glass of hot water.”を日本語にするとき、うっかり「熱い水をください」と訳したことがある人はいないでしょうか。もちろん、これは「お湯をください」が正解。厳密に言うと、water は「水」ではなく、ice(氷)とsteam(水蒸気)のあいだの「液体の状態にあるH2O」だということになります。それを、状況に応じて「冷水」「水」「温水」「湯」「熱湯」などと訳し分けていくわけです(科学では「熱水」という言い方をする場合もあるようですが)。
hot waterやboiling water、あるいは逆にcold waterなどとはっきり書いてあれば、まちがえることは少ないでしょう。しかし、たとえば、紅茶の入れ方についての文章であれば、お湯の話がずっとつづくのがふつうですが、その際、最初だけはhot water で、2回目以降はただのwaterと書かれているというようなケースはじゅうぶん考えられます。立てつづけに出てくれば注意して「湯」と訳せるでしょうが、数ページあとの、忘れたころに出てくるような場合には要注意です。
これと似た例として、ある作品を翻訳クラスの課題にしていたとき、こんな生徒訳を見ました。
In his case, inner life and appearance were, like a block of cement, of one substance.
彼の場合、内面と見かけがセメントの塊のように均一だった。
問題は「セメントの塊」です。日本語の「セメント」は、ふつうは粉末の状態、または水に溶かしたどろどろの状態のものを指しますが、ここではblockと言っていますから、明らかに固体をイメージしています。ですから、これは「コンクリートのブロック」などと訳す必要があるでしょう。英語のcementのほうが「セメント」よりも意味が広いということです。
もうひとつ、これらと似ている要注意語が、plastics、あるいは形容詞のplasticです。もちろん多くの場合「プラスチック」ですが、ご存じのとおり、plastic bagは「ビニール袋」ですね。日本語の「プラスチック」は固体のイメージが強いですが、形容詞plasticの本来の意味は「自由な形に変えられる」なので、このようなずれが生じるのです。
越前敏弥先生の本