【連載コラム 第18回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
badly ― 時代とともに意味が変わる
かつて訳した1930年代のイギリスの小説に“The room was badly heated.”という個所がありました。冬の話です。これを翻訳クラスで全員に訳してもらったところ、「その部屋は暑すぎた」と「その部屋は寒すぎた」のまっぷたつに意見が分かれました。「暑すぎた」派がやや優勢だった気がします。では、みなさんはどちらだと思いますか。
わたし自身も絶対の確信はなかったので、これについてネイティブスピーカー10人ぐらいに尋ねたところ、こちらもまた、みごとにふたつに割れました。国籍に関係なく、若い人は反射的に「暑すぎた」だと答え、年長者は少し考えて「寒すぎた」を選んだのです。このとき、年長者のひとりが、「この英文自体の意味は、空調や暖房がうまく効いていなかった(故障していた)ということだから、理屈から言えば両方ありうるが、ふつうに考えれば寒かったのだろう」と説明してくれました。わたしはそれが最も的確な説明だと思います。
badlyはbadの副詞ですから、本来の意味は「悪く」です。それが、口語においては、単に程度を強める表現へと変わってきて、“He badly needs the money.”(彼はその金をひどく必要としていた)のように、「悪い」の意味が消えてしまいました。口語のterribly やhorribly、さらには日本語の「ひどく」が、いまでは単に強調の意味を表すことがあるのと同じです。 Longman Dictionary of Contemporary Englishには、“in an unsatisfactory or unsuccessful way”と“to a great or serious degree”というbadlyのふたつの定義が載っています。もちろん前者が本来の意味、後者が最近の意味ですね。
最初の英文は1930年代に書かれたものですから、badlyは本来の意味で使われていたと考えるのが正しく、訳文は「その部屋の暖房はよく効いていなかった」または「その部屋は寒すぎた」とすべきです。
越前敏弥先生の本