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【連載コラム 第11回】辛酸なめ子の英語寄り道、回り道

産業翻訳者のリアル 

 ビジネスの世界で必要とされている「産業翻訳」の分野で活躍されている株式会社メディア総合研究所の平野幸治さん。略歴を拝見すると「ローカライズ」「コンソーシアム」などハイレベルな用語が登場し、エリート感が。実際お会いした平野さんは、語学が得意そうな知的な雰囲気ですが……

「英語は全然できなくて。今でも好きじゃないですね。哲学科出身なんですが、学生時代本当に苦手で。なんでこの業界にいるんだって思いますね……」と意外な言葉が。
「最初は外資系IT企業の英語部門にいて、教育やローカライズの仕事をしていました。外資だと英語できなくても周りがわかったふりをしてくれるんですね。英語力が鍛えられたのは翻訳会社に入ってからです」

 翻訳会社のプロジェクトマネージャーとして働くうちに、シビアな空気を感じたことも。

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「一番最初のミーティングで失敗したことは忘れられません。わからなければとにかく笑っとけばいいと思って、ずっとニヘラニヘラしていたら、『彼はなんで笑っているの』とクライアントの女性社員に注意されて。納期は大丈夫か、という極めてシビアな話をしているのに笑っていたから目についたようです。その女性ににらまれた場面は今でも夢に出るくらいですね」
 それは寿命が縮まりそうですが、英語がわからなければ曖昧な笑顔を浮かべる、というのは多くの日本人がやりがちです。

「海外のお客様と仕事すると、お金を出す側といただく側なので、緊張感があって英語力も鍛えられますね。なんで誤訳したのか理由を示せとか言われるので、そこで必死になって英語と向き合った気がします」
 イメージですが、外資系は高額なギャラなので、緊張感もギャラに比例して高まりそうです。

 翻訳の仕事は粛々と進んでいくイメージですが、時には不測の事態が起こることも。平野さんはまた別のスリリングな体験も教えてくださいました。
「翻訳者さんに30ページお願いしていたら、納品当日に『ディスクがクラッシュしました』と言われて。真っ青になって、さすがに怒るわけにもいかず……。お客様には、今日の納品は無理になりました、と連絡して、翻訳者さんを5人、手配し直しました。表現を統一するため校閲も厚くして。数日後、おそるおそる納品して『大丈夫です』って言われたときはホッとしましたね。何が起こるかわかりません」
 その当時はまだクラウドも普及していなかったとか。

「翻訳者さんと連絡が取れなくなって、奥様に『今朝入院しました』と言われたこともありました」
 翻訳者さんも人間なのでしかたないです。かといって、全て機械翻訳やChatGPTに委ねるというわけにはいかないそうです。

「AIや機械翻訳の登場は業界的には大激震ですね。翻訳者さんからすると食いぶちが失われる不安があると思います。でも、使えるところは結構使えます。翻訳者さんがゼロから翻訳するのではなく、MT(機械翻訳)出力したものを人間の翻訳者が直す作業になっていっています。翻訳者って語学好きなので、ゼロから翻訳したいのに、あろうことか機械が翻訳したものを直すなんて、っていう方もいらっしゃると思います。クライアントからも、機械翻訳使っているなら安くならないの? って値切られることも」

 コストが少し安くなることで、クライアント側も翻訳を外部に依頼しやすい、というメリットがあるようです。いずれ、記事執筆の仕事も値切られる時代が来そうです……。その時までAIなどを使いこなして、仕事の効率化を考えないと生き残れないかもしれません。産業翻訳の世界でも、機械翻訳や翻訳支援ツールなどが使えないと仕事を依頼しにくくなっている現状があるとか。「串刺し検索」といって、複数の辞書やデータベースで一気に検索し、一番いい訳を選ぶ、というスキルも必要なようです。

「翻訳の量は増えていて、納期も短くなっていっています。例えば医薬系だと、ワクチンや薬の治験の結果を日本語にするのですが、スピード勝負で早く納品しないと、それだけ患者さんに薬を届けるまでの時間が延びてしまいます。一日でも早く翻訳した方が良い。特許関連の翻訳もそうですね。どんどん納期に対するプレッシャーが高くなっていく。より早く、より良いものを、できたらより安く、を目指したいです」

 ちなみに早くてしめきりは何日後になるのでしょう?
「一枚ペラとかだと、今日中にできませんか? とかありますね。土日休みでも、土曜日になんとか、と頼まれたり。その場合は特急料金になります」
 私もたまに「明日まで」とかありますが、特急料金とかは適用されないです……。

 平野さんに、訳していて楽しかったお仕事について聞いてみると、
「字幕ですね。企業のPR動画や講演の翻訳などです。通常の実務翻訳だと恣意性を入れられず、足さない引かないが原則なのですが、字幕は対照的に、ああでもないこうでもない、と試行錯誤しながら翻訳したのが楽しかったです。セリフを全文訳すと字幕に入りきらないので、どこを削るかがクリエイティブな作業になってきます。おそるおそる納品して『大変良かったです』って言ってもらって嬉しかったですね」というエピソードが。

 1分の尺を字幕に起こすのは1時間くらいかかるそうです。
「丁寧にやりすぎると、人件費が赤字になってしまうんですが……」

 翻訳の仕事は職人肌の方が合っているのでしょうか。実際どんな人が翻訳者に向いているのか平野さんに伺うと 「キャッチーにいうと自分に自信がない方ですかね」
と、またもや意外な言葉が。昨今、自己肯定感を上げるべき、という風潮がありますが、逆行していて良いのでしょうか。
「この訳文で正しいんだろうか、もっと調べたらなんとかなるんじゃないか、って何度も確かめながら訳す人がいい仕事をしています。今回は完璧って思ってしまう方は、訳文がボロボロだったりしますね」

 それは受験でもよく聞く、できたと思った人ほど結果が振るわない、という法則と似ています。翻訳の仕事は一回一回が試験のようなものなのかもしれません。

「また、英語だけできます、というのではなく、得意な専門分野があると良いですね。製薬会社や証券会社など、前職の専門知識が生かされます」
 それでいうと、スピリチュアル系の分野ならちょっとできそうですが、そもそも需要がなさそうです……。

 新しい技術を柔軟に取り入れながら、専門知識もあって、日々研鑽を怠らず、性格的には謙虚……有能な翻訳者さんは人格的にも優れているのかもしれません。これからはありがたく翻訳文を拝読したいです。

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辛酸なめ子漫画家・コラムニスト。1974年東京都生まれ、埼玉県育ち。精神世界、開運から皇室、アイドル観察、海外セレブまで幅広いテーマを対象にエッセイと挿絵で人気を得る。著書に『辛酸なめ子の現代社会学』(幻冬舎文庫)、『スピリチュアル系のトリセツ』(平凡社)、『大人のコミュニケーション術 渡る世間は罠だらけ』『新・人間関係のルール』(光文社新書)、『女子校礼讃』『辛酸なめ子の独断!流行大全』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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