【連載コラム 第15回】
越前先生の「この英語、訳せない!」
ビシッと決まる訳語の裏には翻訳家の人知れぬ苦労があります。
名翻訳家の仕事と思考のプロセスを追体験できる、珠玉の翻訳エッセイ。
value ― 「価値観」にも 「価値要素」にもなる
valueはもちろん「価値」ですが、その訳語だけでは対応できないこともよくあります。たとえば、“She couldn’t accept the values of the company.”など、valueが複数形になっているときには、「価値」ではなく「価値観」を表すことが多いです。逆に、「価値観」を英語で言い表したいときには、「価値」「観」と分けて考えたくなりますが、values 1語でじゅうぶんです。
コラムの第6回、第9回でも紹介した『ストーリー』や、その続編にあたる『ダイアローグ』(ロバート・マッキー、フィルムアート社)には、valueが重要なキーワードとして頻繁に現れますが、ここでは独特の使い方をしていて、訳出以前に意味をとらえるのがなかなかむずかしい。たとえばこんな文があります。
Story values are binaries of positive/negative charge such as life/death, courage/cowardice, truth/lie,(後略)
binaryというのは、対を成すふたつのもの(「生と死」「勇気と臆病」「真実と嘘」など)を指します。story valuesは「物語の価値」ではまったく意味が通じず、ここではストーリーを組み立てていくためのさまざまな基本的な材料のことなので、わたしは以下のように訳しました。
ストーリーを動かす価値要素はプラスとマイナスの両面から成る。
たとえば、「生/死」「勇敢/臆病」「真実/嘘」(後略)
「価値要素」という言い方は、たぶん辞書にはありませんが、ビジネス書などではたまに見かけることばで、こういうvalueを日本語で表現するために新しく生み出されたことばだと言ってもいいでしょう。
なお、上の例では全体の趣旨を伝えることを優先し、chargeに対する訳語を特に入れていません。あえて言えば「力を持つもの」ぐらいでしょうが、ここで入れても意味が伝わりにくくなるだけなので、抜いたしだいです。翻訳では、ときにこのような処理が必要になる場合もあります。
越前敏弥先生の本