翻訳業界の最新動向
新型コロナウイルス感染症の大流行によって、国、企業、そして一人ひとりの個人が、生産・消費活動を大幅に抑制したことで、世界経済は停滞を余儀なくされている。「コロナ・ショック」は、翻訳業界にどの程度の影響を及ぼしているのだろうか。一般社団法人日本翻訳連盟(JTF)の会長に現状と今後の展望を聞いた。
リーマンショックを超える過去に例のない需要減
日本国内の翻訳市場規模は、おおよそ2000億円〜2600億円程度と見積もられている。業界団体である日本翻訳連盟は数年おきに市場動向を調査しており、2017年に、業界771社を対象に実施した『第5回翻訳・通訳業界調査報告書』のアンケート調査では、日本の翻訳市場規模を約2560億円と推定している。
折からのグローバル化の進展により、日本の翻訳需要は、微増ながらも着実に拡大を続けてきていた。この先も順風満帆と思われた矢先、猛烈な逆風が襲った。中国・武漢に端を発する『コロナ・ショック』である。コロナ・ショックにより、日本のみならず、世界中の市場が生産・消費の両面から、著しい制約を受けるようになった。もちろん、翻訳業界とて例外ではない。では、翻訳業界はどの程度の影響を被っているのだろうか。2020年6月にJTFの会長に新たに就任した安達氏は、次のように説明する。
「現在、『翻訳・通訳業界調査報告書』の改訂作業に着手しており、関係各社にアンケート調査を実施しています。すべての回答がそろったわけではありませんが、肌感覚として、翻訳業界全体で売り上げ2割減を見込んでいます。手がけている翻訳分野によっては、6割の減収に見舞われた企業もあります。影響は甚大と言っても過言ではないでしょう」
過去、日本経済は幾度となくピンチを迎えてきた。古いところでは前世紀のバブル崩壊に始まり、2008年のリーマンショックや2011年の東日本大震災など、大幅な需要減につながる出来事をいくつも経験してきている。安達氏は、「過去のそういった経済危機よりも、今回のコロナ・ショックのほうが影響は大きくなると予想されます。ワクチンや治療薬が開発されるなど、根本的な解決策が見つかるまで、需要の回復は期待できないでしょう」と、不安を隠さない。
影響は一時的? 翻訳需要は底堅い
新型コロナウィルス感染症対策として、『リモートワーク』を導入する企業が相次いでいる。翻訳業界はもともとリモートワークとの親和性が高く、その意味では、コロナ・ショックによる影響は限定的とする考え方もあるが、安達氏は異議を唱える。
「翻訳業界は、翻訳を発注する『クライアント』と、翻訳を受注する『翻訳会社』と『翻訳者』という3つのプレイヤーで主に構成されています。クライアントは多岐にわたりますが、コロナ・ショックによる経済活動の停滞で業種によっては、クライアントそのものも大幅な減収に見舞われており、翻訳の発注自体が減っているところもあります」
発注量そのものの減少だけでなく、『対面』による営業活動の停滞も、影響を拡大させている要因のようだ。
「コロナ・ショック以前は、クライアントと直接顔を合わせるかたちでの受注活動を展開していましたが、対面コミュニケーションを自粛したり制限したりするようになったことで、従来のようにアクティブな営業活動が行えないことも、減収につながっています」
そう聞くと、翻訳業界の先行きについてネガティブなイメージを抱きがちだが、安達氏は、中長期的な展望については楽観視している。
「なぜなら、翻訳需要そのものは堅調であり、消失したわけではないからです。一時的な受注減に直面しているとはいえ、これを乗り切れば、再び翻訳市場は拡大基調に戻るでしょう」
かねてからのグローバル化の進展により、海外展開に取り組む日本企業が増える一方、外資系企業の日本市場への参入や外国籍ビジネスパーソンの増加に伴い、コロナ・ショック以前の翻訳需要は順調に拡大してきた。また近年では『ユーザー生成コンテンツ(UGC)』の増加も需要増の追い風となっていた。
UGCとは、消費者(ユーザー)によって制作や提供が行われる作品(コンテンツ)のことだ。YouTubeなどの動画コンテンツは世界中で視聴されており、1日あたりの動画再生時間は、ゆうに10億時間を超える。企業などもプロモーションなどに動画サイトを利用しているほか、一般ユーザーも、動画をきっかけに消費行動を選択するなど、年を経るごとにその影響力が強まっている。マーケティングやブランディングに動画コンテンツを活用したい企業にとっては、世界中の視聴者を獲得することが必要不可欠といえる。そのために、作成した動画に字幕を挿入する必要があることから、UGCの翻訳需要が伸びているのだ。安達氏によれば、他にも期待できる分野があるという。
「日本の証券市場の国際化を目的に、2019年に東京証券取引所が、数千社にのぼる東証一部上場企業に英文開示を義務付ける方針を固めました。現在、英文開示を実施している企業は半数以下。残るすべての企業が英文開示に踏み切るとなると、今後数年の間に、膨大な翻訳需要が生まれるはずです」
とはいえ、コロナ・ショックによる影響を除外したとしても、翻訳業界に懸念材料が全くないわけではない。安達氏は、「ニューラルネットを活用した『機械翻訳』の精度向上がもたらす影響は無視できません」と、警鐘を鳴らす。
「品質・スピード・コスト」3拍子揃った翻訳者を目指せ
安達氏によると、「機械翻訳の精度は年々向上している」という。
「もちろん、文脈を理解しない、クライアントの意向を踏まえない、意訳できない等々、機械翻訳はプロの翻訳者のレベルにはとうてい及びませんが、精度の向上を踏まえ、あらかじめ機械翻訳された文章の翻訳をクライアントから求められるケース、すなわち『ポストエディット』作業のニーズが増えています。それが、翻訳単価の低下につながっています」
ポストエディットとは、機械翻訳が出力した訳文を『ポストエディター』と呼ばれる作業者が修正して、人による翻訳に近づけるサービスだ。翻訳分野や翻訳ソフトの性能によっては、時には一から翻訳し直す必要が生じることもある。
「ポストエディット作業が増えるなど、以前とは発注・受注スタイルが変わって単価が下落傾向にあります。翻訳会社や個々の翻訳者が収入を維持あるいは拡大しようと思ったら、クオリティは落とさずに、翻訳のスピードを上げざるを得ません。つまり『品質・スピード・コスト』に適う翻訳者が、今後は強く求められるようになるはずです」
これから翻訳業界に飛び込む新人翻訳者の中には、初めて任される翻訳作業がポストエディット作業になる可能性は十分にある。前述の『品質・スピード・コスト』に応えられる翻訳者になるには、とにかく量をこなしていく必要があるが、安達氏は「できれば最初はポストエディットには手を出さず、人による翻訳の経験をじっくり積むべき」とアドバイスする。
「プロとしてやっていこうと思うなら、『一から翻訳』のスキルを徹底的に磨いたほうがいいでしょう。『一から翻訳』のスキルとは、原文を正確に理解する力と的確に訳す力です。ポストエディットを手掛けるにしても、機械翻訳が意味不明の訳文や不正確な訳文を出力するケースは今も散見されます。それを手直しするためには、原文本来の意味を正確に理解したうえで翻訳し直す必要があるのです」
加えて、翻訳スキルだけでなく、専門性と経験を活かしライティングするスキル、ビジネス文書特有の言い回しに精通しているなど、『プラスアルファ』の能力をあらかじめ磨いておけば、業界で重宝されたり末永く活躍できる可能性が高まるという。
「コロナ・ショック、そして機械翻訳の精度向上は、翻訳業界に大きな影響を与えています。だからといって悲観することなく、この逆風をむしろチャンスと捉え、スキルを磨いたり新たなスキルを身につけたりするなど研鑽を積むことを心掛けるべきでしょう。前述したように、翻訳市場のポテンシャルは高く、いま力を蓄えておけば、いずれやって来る需要回復の波に乗り遅れることはないはずです」
取材・文/陶木友治
JTF Online Weeks(JTF翻訳祭29.5)
つながる時代を生き抜くために
〜原点への回帰と進化の道程〜
開催期間:2020年11月9日(月)〜21日(土)
開催形式:Zoomオンラインウェビナー(一日1〜2セッション)
プログラム等の詳細は公式サイト<https://www.jtf.jp/2020jtf_onlineweeks/>へ
機械翻訳ソフト“Machine Translation”とは
コンピュータープログラムによって機械的に翻訳を行うソフトウェアの総称で、単純に訳出だけを行うものから、訳文をデータベース化する翻訳メモリ機能を備えたものなどがある。独立したソフトウェアになっているものをはじめ、他アプリに組み込むアドオン、オンライン上で行うものなど形式は様々。医学翻訳、特許翻訳、技術翻訳など、主に辞書機能が専門分野に特化されたソフトも登場している。価格は無料のものから十数万円するものまで幅広い。